「気が向いたらやる」が成立する理由

3月のさが桜マラソンが終わり、すっかりトレーニング意欲が消えてしまった。これは去年も同様である。
こうなることはだいたい予測できていたので、驚きではない。

「マラソン後はトレーニングはやっていません」と言うと、まったく走っていないように勘違いされることがある。
しかし、基本は毎日走っている。毎日運動している、と言う方が正しいかもしれない。

登山や長い散歩の日もあれば、ジムでウエイトをやる日もある。
そんなことを言うと、「トレーニングしているじゃん」とまた言われる。

気持ちがトレーニングモードから運動モードに切り替わった、と言う方が正しい。

では、何が違うのか。
運動は、体を動かす行為そのものに意味がある。
だから「今日は走ろうと思っていたけど、なんとなく気分が乗らないから、代わりに筋トレでもやるか」でもOKである。(あくまで私個人のルール)
その結果が何になるのかは、大きな問題ではない。

一方でトレーニングは、ある特定の目標に向けて、負荷を考えながら組み立てる必要がある。
心肺機能の強化を目的にしているのに、「走るのがだるいから筋トレに変えよう」とはできないし、ロング走が必要なのに「ダッシュでサクッと終わらせる」というわけにもいかない。

だからトレーニングモードに入ると、走ることが中心になる。

味を軸に食事を選ぶ場合と、栄養素を軸に選ぶ場合の違いに、少し似ているのかもしれない。

ここ数年は、このように運動モードとトレーニングモードを切り替えながらランニングを続けている。
いつ切り替えるかは特に決めていないが、しばらく運動モードが続いていると、「そろそろ体力を引き上げにいくか」「あのレースで記録を狙ってみるか」と、内側からじわじわと気持ちが湧いてくる。

気が向いたらトレーニングを始める、とも言える。
運動モードがいい充電になってくれているから、このマインドで問題ない。

もちろん、習慣になっていないものに対して「気が向いたらやる」と言っても、いつまで経ってもやらない。そこは全く別の話である。

サーファーが波を待って動き出すようなものかもしれない。
もちろんそれは、波が来る場所で待っているから成立するのであって、適当に選んだ場所で待っているわけではない。(あくまで想像だが)

トレーニング意欲が湧いてくるのを待つ。
そのためには、適切な場所に気持ちを置いておく必要がある。それが自分にとっての運動モードなのだと思う。

「気が向いたらやる」
その気がやってくる場所、その波がやってくる心の位置を分かっているからこそ成り立つ考え方なのかもしれない。

もちろん、「気が向いたらやる」と言ってやらなかったことも、これまでにいくつもあるのだけれど。

作家の村上春樹さんが、「小説が書けなくなるスランプを一度も経験していない」と書いているのを読んだことがある。
それは、小説を書きたいと思う時にしか書かないからで、そういう時期にはエッセイや翻訳をしているのだという。

小説は書いていなくても、「書くこと」自体をやめているわけではない。
そう考えると、やはり波が来るべき場所に心を置いているのだと思う。

何かを目標にして走るトレーニングと、何も求めずに走る運動。
その絶妙なバランスが、個人差はありつつも、大事なのだと感じたこの頃。

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